大田ところどころ 恋に恋い焦がれ、火あぶりにあった女 〜鈴ヶ森刑場〜 |
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刑法第一〇八条(現住建造物等放火)放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船または鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。 第一〇九条(非現住建造物等放火)第一項 放火して、現に人が住居に使用せず、かつ、現に人がいない建造物、…(中略)を焼損した者は、二年以上の有期懲役に処する。二項 前項の物が自己の所有に係るときは、六月以上七年以下の懲役に処する。ただし、公共の危険を生じなかったときは、罰しない。 |
強烈なタイトルとお堅い出だし(一応法律にも触れておかないと…)になってしまったが、キーワードは“火あぶり”と“放火”である。どちらも恐ろしいものだ。前述の刑法第108条、109条を見て頂きたい。現行の法律では放火の罪についてこのように定められている。では、昔はどうだったのか? かつて放火は火あぶりの刑に処された。火の罪を犯した者は、火で罰せられたのである。 江戸時代、大田の近辺にはそのような罪に問われた者を処刑する場所があった。南大井の旧東海道に面した鈴ヶ森刑場である。現在も跡地として残っている。両脇に旧東海道と第一京浜が走り、雑然とした中、そこだけひっそりと、少し薄気味悪いような雰囲気さえ漂う。雨の日や夜には何か出そう?で、とてもじゃないが近寄れない。そこには処刑にあった人達を供養する大きな墓、また火焙・磔に使われた処刑台が今も生々しく残っていた。 ときは身分制度の厳しい武士社会。実際目にしなくとも、目を覆いたくなるような、今にも声を張り上げそうな、容赦ない処刑が見せしめとして行われていた。旧東海道沿いにあるのは、多くの通行人に見せしめるためだろうか。火焙、磔…火焙は、目の前の海に向いて身体をはりつけ、火を放つ。煙は海風で後方に流されるために窒息死することなく、燃え盛る炎の中で絶命するまで、悶絶の地獄を味わせた。磔は、長ヤリが体を貫通して即死に至っては苦しみが足りぬとばかりに、刃先が体内にとどまる位置まで荒縄を巻き、刺してはひねり抜いた。キリシタンにいたっては逆さ磔だったという。見せしめである以上、残酷でなければならなかったのだ。しかし、受刑者の四割がえん罪だったという。 |
鈴ヶ森処刑場跡(南大井2−5−6) |
お七地蔵(密厳院内、大森北3ー5ー4) 鈴ヶ森処刑場から歩いて15分ほど離れたところにある。火刑にされたお七の屍体が密厳院に引き取られ、埋葬されたと伝えられる。この地蔵はもとは鈴ヶ森にあったものが一夜にしてここへ飛んできたという説もあり、「一夜地蔵」とも呼ばれる。 |
処刑された者の中に、八百屋お七という女がいた。恋をしてしまったがために、火事を起こしてしまうという話がある。井原西鶴の物語「好色五人女」にも登場する。 お七は江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘として生まれた。天和2年(1682年)12月28日16歳の時に火事が起こり、一家でお寺へ避難した際に、そこで知り合ったお寺の小姓と恋に落ちた。後に元の家に戻ってからも、お七の想いは冷めることなく、なおも激しく燃え上がり、「また火事があったら会える」と思い込み、翌天和3年3月2日放火した。お七は捕まり、江戸引き回しの上、3月29日、鈴ヶ森で火焙にされた。しかし、火事はボヤだったというのだから…なんとも無惨な話である。実話だけに、当時の厳しい時代背景が伺われる。それにしても厳しすぎではないか。さすがに、まだ16歳だったお七に、奉行も情けをかけた。当時15歳以下は、放火を犯しても死罪まではなく、遠島だった。奉行が計らいをかけて、「そのほう、年はたしか一五であったのう」と、何度もうまく話をもっていこうとしたが、お七は16歳だとして譲らなかったという。 |