敗戦から60回目の夏を迎えて
憲法は今もその輝きを失うことはない。     弁護士  杉  尾  健 太 郎 
 私は、60年前の敗戦の日を知りません。ですが想像することはできます。あの日、ほとんどの日本人は、心から、戦争は2度とごめんだと思ったはずです。国の都合で中国に送り込まれ見捨てられた子どもたち、原爆で焼かれた人たち、私たちが殺した2000万人以上のアジアの人たち、被害者であると同時にまぎれもなく加害者である私たち日本人。平和な世界を。そのために私たちは全力を尽くす。それが無念に死んでいった仲間への手向けであり、殺した人々へのせめてもの償いです。その決意を示したのが憲法であり、前文、九条だと思います。
 その九条を変えようと「改憲」の動きがいよいよ現実味を帯びてきました。「普通の国になるために」「現憲法は現実に合ってないから」改憲が必要だなどと言われます。「普通」って何でしょう?「現実」って何でしょう?世界中で紛争が起きている「現実」を前にして、だから戦争ができる「普通」の国になろうというのが「改憲」を唱える人たちの表向きの考えみたいです。そりゃ違うんじゃないでしょうか。あの日、戦争がもたらすモノを目の当たりにした私たちは、だから戦争はしちゃいけない、何があってもしちゃいけないって決意したんじゃありませんか。だいたい「現憲法では紛争で困っている世界中の人たちを助けられない」と言っている人たちが、世界から紛争をなくすために何の努力をしたのでしょうか?「現憲法には環境権やプライバシー権などの新しい人権が書いてない」と言っている人たちが新しい人権を獲得するための闘いの先頭に立ってきたのでしょうか?むしろ今まで世界の経済格差問題や人権課題に背を向けてきた人たちが、こぞって急に世界中の人たちの心配をしたり、人権を声高に叫ぶ。底が透けて見えて滑稽を通り越して空寒い気がします。憲法を輝かせようと努力してこなかった人たちが、憲法は輝きを失ったなどと言っているだけです。

5月26日、大田区在住在職の弁護士が「弁護士9条の会・おおた」を発足しました。発足記念講演「おおた・憲法の夕べ」には会場いっぱいの400名の方々が集いました。写真・郡山総一郎さん
 日本は毎年約5兆円ものお金を軍事費につぎ込む世界第3位の軍事大国です。「改憲」を叫ぶ人たちは、世界で3番目の軍隊を使えないなんてもったいない!世界中で儲けるために使おう!と考えたのでしょう。でも、ある試算によれば、世界中の核兵器を廃棄するためにかかる費用は約7兆円、世界中の地雷を撤去するためにかかる費用は約4兆円、世界中の人々に安全な飲み水と下水設備を提供するためにかかる費用は約1兆円だそうです。5兆円ものお金、それこそもったいなくないですか?それ私たちの税金なんですけど。使うなら、世界中の人たちが平和で幸せに暮らせるために使って欲しい。皆さんもそう想うでしょ?それは、60年前の日本人の想いと同じはずです。その想いを込めた憲法を輝かせましょう。私たちが国に預けた大切なお金もそのために使いましょう。できるんですよ、私たちの国なんですから。
 

画:寺井邦人さん−寺井さんは長崎の第1号救援列車の機関士。
原爆投下直後、爆心より600mのところまで列車が入った時の様子。

「日本人らしく生きる権利」を
 
弁護士  長  尾  詩  子
「今も続く苦しみから核兵器のない
世界へ」

〜被爆者Nさんの話を聞いて〜
    
事務局  中  川  千 栄 子
「孤児たちに残された時間は多くない。また置き去りにしてはならない。」(朝日新聞7月7日社説)
 「孤児たちを不安から救い出そう。残された時間は少ない。」(毎日新聞7月7日社説)
 「孤児たちの自立や二世たちの教育支援にこれまで以上のキメ細かい援助が急務である。」(産経新聞7月7日社説)
 「何度も国に見捨てられ、ようやく土を踏んだ日本で厳しい生活にあえぐ中国残留孤児には、あまりに残酷な判決だ。」(愛媛新聞7月7日社説)
 「日本語を話すのもままならず、生活苦にあえぎ、救いの手を待っている原告はじめ全国の帰国残留孤児には、極めて厳しい判決内容といわざるをえない」(南日本新聞7月7日社説)
 「苦難の道を歩んできた中国残留孤児にとっては、あまりにも厳しい判決である。もっと温かみのある結論を見いだせなかったのかと思うと、残念だ。」「今回の判断がそのまま踏襲されることのないよう、各地裁には十分な配慮を求めたい。」(徳島新聞社説7月9日)
 これらは、7月6日、中国「残留孤児」国家賠償訴訟事件で大阪地方裁判所の「孤児」敗訴の判決についての報道の一部です。あらゆるマスコミが大阪判決を批判し、「孤児」に温かい手をさしのべる判決・施策を期待しています。それほどに大阪判決は温かみのない判決でした。
 判決は「孤児」が生活苦に陥り老後に不安を抱いている現状を認め、国には「孤児」を早期に帰国させる義務があったと認めながら、1972年の国交回復から約9年間もの空白を無視して、義務違反はないと判断をしました。「孤児」たちは国交回復を知って「これでやっと帰国できる!」と夢にまでみた祖国日本への帰国を切望しました。そんな「孤児」にとっては9年間は絶望するほど長い時間でした。
 また、判決は帰国した「孤児」の自立を支援する義務はないと判断しました。しかし、帰国が遅れた「孤児」は、日本語ができず、就職先がなく、やっと就職しても定年後に得る年金は月数万円であるのが現状です。この現状は「孤児」の責任でしょうか。このような場合に国民を助けないならば、政府の意味があるのでしょうか。提訴以来、この訴訟に関わってきた弁護士としては、大阪判決については「くやしい」の一言しかありません。しかし、マスコミ報道及びそれを支えてくださっている多数の国民のみなさんの声には励まされます。
 「孤児」に残された時間は長くありませんが、心安らかな老後を過ごせるように、日本に帰ってきてよかったと心から思ってもらえるように、力を尽くしたいと思います。みなさまのさらなるご支援をどうぞよろしくお願いいたします。
      
 被爆者たちは原爆によって生じたガンなどの疾病(「原爆症」)にいまなお苦しんでいます。被爆者の疾病を「原爆症」と認定する制度がありますが、実際に認定されるのは全被爆者の1%にも満たない数です。被爆者たちは自分の病気の原因が原爆の被害によることを国に認めさせ、原爆症認定制度を抜本的にあらためさせようと集団訴訟に立ち上がっています。大田区在住の被爆者Nさんもそのひとりです。
 Nさんは1ヶ月後に15歳の誕生日を迎える少女でした。女子挺身隊として三菱長崎兵器製作所で魚雷の表面にヤスリをかける仕事に従事していました。その日、爆心より1.0kmにある三菱病院浦上分院の待合室で被爆しました。無数のガラス片・木片がNさんの頭、肩、腕、背中、お尻、足など後ろ半身全体に刺さっていました。被爆直後のNさんは痛みを感じることもできません。その後、Nさんは防空壕に放置され両親と再会したのは被爆から4日後のことでした。40度以上の高熱、嘔吐、吐血、下痢、下血を繰り返し、頭は丸坊主、歯は全部抜け落ちました。Nさんに髪の毛が生えてきたのは被爆から5年経ってから、それも真っ白の細い髪でした。3度に及ぶガラス片の摘出手術を受けましたが、全身のいたるところから自然にガラス片が出てきました。ガラス片が出てこなくなったのも、被爆から5年経ったころからです。
 Nさんは26歳で結婚しましたが、被爆のことは夫に話せませんでした。2度の流産と2度の死産を繰り返し、不思議がる夫に堪えきれずに話しました。その時のNさんの気持ちを書き表すことはとてもできません。Nさんは、左頭部のガラス片の摘出手術の跡(有痛性瘢痕)が、現在も触るとキリキリと痛み四六時中頭が重い状態にあります。これを国は原爆症であると認めていません。
 世界で唯一の被爆国である日本の政府が被爆者に対してなんと冷たい仕打ちでしょうか。原爆症を認めさせるのに裁判までしなければならないとは。戦争で苦しみ、被爆者ゆえにいまなお苦しんでおられるNさんが、体力と勇気を振り絞って裁判に参加されたことの意味を考えてみたいと思います。被爆者の方々にとってあの夏はまだ終わっていません。
なんぶ2001年夏号