〜ようやく再審の扉開く〜
横浜事件
          弁護士 向  武 男
 一九四五年八月一五日の敗戦の日からしばらく経って、横浜の裁判所では、機密書類といわれる治安維持法関係の書類が焼かれた。米軍が進駐して来る前に廃棄してしまえという上部からの指令によって、取り調べの書類や証拠が裁判所、検事局自身の手によって焼かれたり、捨てられたりした。国民に対する、人権を無視した逮捕、取り調べ、裁判の行使が、占領軍に知れて責任を追求されることを免れるためであった。そのとき世にいう横浜事件の重要書類はほとんどが廃棄された。
 神奈川県特別高等警察(特高)によって捏造された治安維持法違反事件は、共産党の再建を企てたとして、六一名が逮捕され、三三名が有罪とされ、三名が獄死し、一名が病死という悲惨な刑事事件であった。逮捕された人々の多くに対し、踏む、蹴る、殴るといった凄惨な拷問が加えられた。特高は、貴様なんか殺してもいいと言われていると豪語した。拷問に耐えきれず、苦しさのあまり、特高のいうことを認めると、それが調書にされ、次々と知人、友人が逮捕され、誰々がこう言っていると、同じように拷問にさらされて、広まっていった。
 この弾圧事件は、四二年九月評論家細川嘉六氏の「改造」誌に掲載された「世界史の動向と日本」という論文が、陸軍報道部から槍玉にあげられ、細川氏の逮捕から始まり、終戦の四五年八月の判決言い渡しまで続いた。その間綜合雑誌「改造」「中央公論」が強制的に廃刊させられた。細川嘉六氏は、警視庁に逮捕され起訴された。この事件に前後して、アメリカ留学から帰国した経済学者川田寿氏が神奈川県特高に逮捕された。このふたつの逮捕事件を口火として、神奈川県特高は、次々と検挙者を拡大した。改造、中央公論、日本評論、岩波書店の出版関係者をはじめとして、満鉄調査部、昭和塾、その他に及んだ。特高は「共産党再建」という名目を掲げたが、逮捕投獄された人々の関係には思想としての一致もなかった。それぞれは、良心的でひよわな研究者、インテリでしかなかった。  
 特高の拷問による自白調書は、検事に提出され、検事の手からそのまま予審判事に引き継がれ、最後に公判廷で判決の言渡しが行われた。裁判では、裁判所が選んだ官選弁護士が出廷したが、被告人とされた人々には一言の釈明も反論の機会も与えられなかった。検事の取り調べの際、そのような事実はなかったと述べると、検事は「それでは、もう一度警察で調べ直しをするか」と、脅迫めいた言葉を吐いた。人々に対する裁判では、一言の反論も意見も述べる機会を与えられなかった。
 戦後、被害に遭った人々は、裁判のやり直し・再審を求めた。第一次、第二次の再審請求の申立に対し、裁判所は、自ら廃棄したそれら関係書類がないからという理由で、申立を却下した。このたび、第三次請求に対し、東京高等裁判所は、特高の拷問により、証拠が捏造されたのだとし、再審裁判開始を認めた。
 やっと、再審の固い扉が開かれた。制定から終戦直後の廃止までの二〇年間、国民の自由と人権を奪い続けた悪法治安維持法の実態は、この再審法廷で明かになるであろう。
なんぶ2001年夏号