大田ところどころ 平和への思い 〜蒲田から〜 | ||
「昭和19年8月26日、先生に引率され、上野駅から夜汽車で、富山県黒部市生地に向かいました。私は、遠足気分でしたが、親は永遠の別れと思ったかもしれません。事実空襲で親を亡くした方がいます。男子は専念寺、女子は戒光院(尼寺)にお世話になりました。この冬は大雪で長靴がなく藁靴を買って履きました。食事は、豆入りご飯で、みそ汁、漬け物、煮物と魚が交互で、量は少なく、おなかをすかし浜に干してある大根を盗んで食べたことも。でも住職や町の方々は私のために食糧を調達して下さいました。夏は虱や蚤に悩まされ、秋はいなご取りで、食卓に上がりました。また教室から汽車の通るのが見え、あれに乗ると東京に帰れると、外を眺めました。面会は2、3回あり親との別れは悲しいものでした。」(南蒲田一丁目自治会発行創立50周年記念誌より)
とある方の想い出の記です。これを読んで、どんなことを感じるでしょうか?
これを書き記した方同様、想い出の記として懐かしく受け取る方もいらっしゃるでしょう。戦争を体験していない私には衝撃的でした。蒲田から遠くの地へ学童疎開をし、家族と離ればなれ、しかも当時はまだ小学生。疎開先の人々のあたたかさは私にも伝わります。みんな一体となって過ごしていたのでしょう。しかし、空腹や、また何よりも家族に会えないことのさみしさは小さな子どもにとって、想像絶するくらいにとてもつらかったことと思います。 1941年に太平洋戦争が勃発しました。翌年、国家総動員法により、延焼のおそれのある所などを間引きするため、各所で家屋を破壊するようになりました。蒲田の地域でも、有無を言わせず短期間での引越を余儀なくされ、わずかなお金で家を国に買い上げられた方がいました。目の前で、生まれ育った家が壊されてゆくのです。それから大田区は、すっかり軍需工場の町になりました。戦争が激化し、学童疎開が始まりました。 1945年4月15日、運命の日が訪れました。B29が200機、蒲田を中心に爆撃、爆弾200発、焼夷弾1万8000個を投下しました。被害者17万2千人・死傷者1500人・焼失家屋4万7千戸となりました。戦前のそれまで、のんびりとした“田園風景”〜“キネマの街”と変貌を遂げてきた新興蒲田のまちは一夜にして失われました。 そして8月、広島と長崎に原子爆弾が投下されました。 8月15日敗戦を迎えました。敗戦後、連合軍は羽田へ物資を輸送するため、JR蒲田駅から現在の産業プラザ(Pio)を通過し線路を敷き空港線へとつなぎました。 今年は終戦60年をむかえます。平和な年であることを願います。しかしながら、世界ではまた戦争を繰り返しています。たくさんの人達が死んで、ケガを負って、食べ物も食べられず、苦しんでいます。戦争に関係のないたくさんの子ども達が犠牲になっています。日本もそれに加担していきます。人道的な支援というかたわら、戦争もするのです。日本はかつて戦争を体験しました。その過去から平和憲法が生まれました。許されることのない過ちから、もう二度と戦争をしないと誓いました。 それは被害に遭った方への最低限の義務、罪滅ぼしとして、永遠に背負っていかなければなりません。私たちは、これからも、堂々と憲法9条を掲げるべきだと思います。国民に対しても、他の国々に対しても。戦争を体験したたくさんの人々に、戦争をしないと堂々と誓わなければなりません。もう二度と同じ体験をすることのないように。どうか今年一年平和に過ごせますように。 私の平和への思いです。 (事務局 西 英子) 参考文献:東京都大田区南蒲田一丁目自治会発行、創立50周年記念誌わが町の歩み 松本四郎著:東京の歴史 焼野原となった東京 |