大田ところどころ  う つ り ゆ く 蒲 田    
 今日も電車の揺れとともに頭もゆらゆら…、蒲田行進曲の音に目を覚まし、事務所へと向かう。私は毎朝東京の端から端を縦断している。ラッシュにもまれ、だいたい新橋を過ぎる辺りで座れる。私の日常だ。私の利用するJR蒲田駅は、発車の合図が「蒲田行進曲」というところを除いては、私にとっては何の変哲もない駅である。駅前はお世辞にもきれいとは言えないし…ましてや通勤に使っているともなればなおのこと、決していい印象はない。
 しかし、今年はちょっと違う。何気なく通る改札の上に、「蒲田駅開業100周年」の垂れ幕がかかっていた!いつも「蒲田なんて…」とつい言ってしまうが、これは結構すごいことかもしれない!と、調べてみるのもいいかなと思った。
 早速改札の駅員さんを訪ねてみたが、なんせ100年も前、そんなことを知っている人はなかなかいない。しかし、JR蒲田駅ではプロジェクトチームを結成し記念行事を開催、また駅ビルや西口商店街も独自のイベントを実施し、大変賑わったそうだ。他に何かないかと、図書館をあたってみた。ここで少し蒲田のことが分かった。
 
☆田んぼの蒲田
 蒲田駅は今からちょうど100年前、明治37年(1904)4月に開設され、蒸気機関車の停車駅となったという。開設当時は東口だけに出入口があり、駅前に新道ができ、3、4台の人力車や運送屋があった程度。蒲田は、当時梅の名所として有名で、米や野菜作りの他、農家の副業として花作りも盛んだったらしい。現在のごみごみとした駅前からは想像がつかないが、今でも梅屋敷の梅はその面影を残しているように思う。しかしやっぱり現在の駅前と比べてみると…とうてい田んぼがあったとは思えない。田園風景の蒲田、見てみたかった。
 大正4年(1915)に電車が通るようになると、田んぼの真ん中に工場が建ちはじめ、会社も出来てきた。それにともない、乗降客も増え、駅前には店が建ち並び、蒲田の町もにぎやかになっていった。 

 
☆蒲田が街へ
 実際蒲田が変わってきたのは、大正9年(1920)に松竹キネマ蒲田撮影所が出来てからのことだった。のんびりとした田園風景、蒲田に撮影所が出来た。蒲田は街へと変貌した。
 『蒲田町史』によれば、「蛙の鳴いていた蒲田たんぼ」は、次第に「近代感覚の先端に踊る映画の都」となり、「震災を契機として急テンポに躍進した新興蒲田は、単調な蛙の音楽から、複雑なジャズのリズムへ、ものうげなランプの明かりから、輝くネオンの閃きへと転向して、コケティッシュな都会」となった。また、毎土曜の夜店には「銀座から新宿から”おい蒲田の夜店にいこう“と、円タクで乗りつけるのさえあるんですから夜店の人ごみは歩けなくなる」ほどの変貌ぶりだったようだ。これも、今となっては信じがたい話だが、「”流行は三越から“が古くなって”流行は蒲田から“スタートする今日となったのも、偏に松竹シネマの存在に価値づけられた結果」と記されるほどで、蒲田撮影所による影響は、蒲田の発展、特に商店街の発展と過大に及んだ。

 
☆失われたまち
 しかし、あたかも戦前の日本映画黄金時代を産み出した母体のように崇められているこの撮影所は意外と寿命が短かった。撮影所はわずか16年で大船に移転した。その原因は、近隣羽田に発着する飛行機の爆音と工場の騒音。そのせいでトーキー映画が作れなくなってしまったというのだ。
 その後、蒲田は東京大空襲で焼け野原となってしまった…。これまでの街は一夜にして失われた。蒲田だけでなく、都内にはもう100年前の住宅は残っていないという。蒲田の運命は変わった。戦後は工場地として今日に至る。


☆今はなき蒲田を見る
 今年100周年を迎えた蒲田駅。かつての面影はほとんど留めていないが、書物や数々残された映画に、意外にも蒲田の街が描かれているという。昭和31年に作られた小津安二郎監督の『早春』、また空襲のあった当時蒲田の西、矢口渡に住んでいた坂口安吾の『白痴』、安西啓明の画集『東京百年』、また映画化・ドラマ化までされた松本清張の『砂の器』、これらの名作が蒲田の街を描いているというのだから、蒲田は実はすごいところなのかもしれない。しかし正直なところ…私はそういった分野はあまり得意ではないので、まだ拝見したことがない。しかし、これらの中で、今はなき田園風景の蒲田を見てみたいと思う。
 私にとっての蒲田のイメージがだいぶ変わった。

なんぶ2001年夏号