日の丸・君が代予防訴訟
東京心の自由訴訟 − 教育現場に心の自由を!
弁護士  杉  尾  健  太  郎
 私は、『日の丸・君が代』を国旗・国歌として愛する人たちを否定はしませんし、スポーツの国際試合で打ち振られる『日の丸』、表彰台に流れる『君が代』に感動する人たちに水を差すつもりもありません。しかし、『日の丸・君が代』を有無を言わさず押しつけるやり方は容認できません。それが教育現場であればなおさらです。もちろん国旗・国家法が制定された以上、子どもたちに『日の丸・君が代』が「国旗・国歌」であることを教えることまでいけないと考えているわけではありません。ただ頭ごなしに敬う態度を強要し、口を無理矢理に開かせることはおかしいと思っています。

 2003年10月23日、東京都教育委員会は、各都立学校長あてに通達(10・23通達)を出しました。この10・23通達は、入学式・卒業式等において、「会場は、児童・生徒が正面を向いて着席するように設営」し、『日の丸』は「式典会場の舞台壇上正面に掲揚」し、「舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与」すること、『君が代』「斉唱は、ピアノ伴奏等により行う」こと、『君が代』斉唱時には「教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立」すること、教職員は「厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる式典にふさわしい」服装を着用することなど『日の丸・君が代』の扱いを事細かに指示し、教職員に対して職務命令をもってこれらを強制するものとなっています。
 10・23通達以降、都立学校の教職員は、卒業式・入学式等において都教委から派遣された職員の監視のもと指定された座席で『日の丸』に向かって起立して『君が代』を斉唱し、ピアノを伴奏することを強いられています。そして、これに従わなかった都立学校の教職員248名に対して、都教委は不十分な手続のままで懲戒処分を強行しました。
 処分で脅しをかけて心の中の持ちように密接に関わる行為を強制するのは、「踏み絵」に他ならないと思います。憲法19条は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と規定しています。これは、心の中の持ちようは「個人の尊厳」(人は人であるがゆえに最高の価値を有するという憲法の基本原理)の中核をなすものであるにも関わらず、歴史上しばしば心の中の持ちようを理由に弾圧が行われてきたことを反省して、心の中の自由を絶対的に保障したものです。私は、憲法を学んだ人間として、どうして都教委による「踏み絵」がまかり通るのか理解できません。

 2004年1月30日、次いで5月27日、合計345名の都立学校教職員は、東京地裁に、10・23通達が教職員ひいては子どもたちの思想・良心の自由を侵害し憲法19条に違反するとして訴訟を提訴しました。その他、解雇された9名の教職員の解雇無効を訴える訴訟、東京都人事委員会への審査請求などが行われています。
 くり返しますが、『日の丸・君が代』自体の評価については様々な見解があってもいいと思います。これらの訴訟等も『日の丸・君が代』自体に反対するものではありません。しかし、政治的信条、信仰、自らの民族的出自、そして教育者としての良心から、『日の丸・君が代』を容認できない人が存在することも事実です。しかも、国旗・国歌の問題は、個人が国家との関係をどう築くかという民主主義国家の主権者たる個人の人格形成の根本に関わる問題です。このような人格の核心部分に関わる価値観について一元的な価値観を押しつけることが、教育現場にふさわしいでしょうか。教育の本質は、子どもたちの人格形成を助けることにあると思います。教育基本法1条も、教育の目的は「平和的な国家及び社会の形成者として、真理を愛し、個人の価値をたっとび…自主的精神に充ちた心身ともに健康な」人間の育成にあるとしています。そうであれば、子どもたちが価値観を形成する場面では、子どもたちが自ら価値観を選択するための判断材料を提供することこそが教育に求められているのではないでしょうか。

 1999年の国旗・国歌法制定後、『日の丸・君が代』の押しつけが強まる中であっても、教育現場では様々な工夫が凝らされてきました。例えば、教職員も生徒も同じフロアで相対する形式の卒・入学式を行ったり、『君が代』斉唱前に「歌う歌わないは個人の自由である」と思想・良心の自由の説明をするなど、子どもが自らの手で式典を創り上げていくことを通して、自らの頭で国旗・国家の問題を考え、判断することができるような試みが模索されてきたのです。しかし、10・23通達のもとでは、子どもたちの工夫の余地など極めて限定されたものにならざるを得ません。
 民主主義は、自律した個人が多様な価値観をぶつけ合う中で取捨選択がなされ、よりよい社会が築かれるシステムということができると思いますが、都教委の目指すものは、民主主義の担い手を育てる方向にはあるとは思えません。子どもたちに国家への帰属意識を叩き込み、一元的な価値観を押しつけることによって、自分の頭で思考せず物言わぬ国民を育成する教育体制作りを指向しているとしか思えません。これは、憲法改悪を見据えた教育基本法改悪の先取りであり、戦争する国家造りの一環として学校教育を利用しようとするものです。そのための使い勝手のよい道具としての教師作りが今回の10・23通達の目的です。まさに、戦前の皇民化教育を復活させようとしているかのようです。
 300万票をもって再選した石原都政のもと、都教委は「東京から日本を変える」とやりたい放題です。それに抵抗する教職員も、少なくとも表面的には、多数派とは言えない現状にあります。なかなか展望は見えにくいようにも思えます。
 しかし、10・23通達は、そのあまりに極端な『日の丸・君が代』の強制によって、逆に道理がどちらにあるのかを鮮明にしたともいえます。教職員が、真剣に教育に取り組もうとすれば、都教委との矛盾の拡大は避けられませんから、都教委の動きに反発する教職員の運動は広がりを見せるはずです。戦争する国家造りの目的が明らかになればなるほど、わが子を守ろうとする保護者との連帯の輪も広がるはずです。何よりも、子どもたち自身が、自らの心を縛ろうとする動きに対して反発するはずです。今こそ国旗・国家の問題を素材に、子どもたちに国家との関係をどう築くかについて自覚的に考えてもらい、憲法の価値を再認識してもらう好機であるとも言えます。戦後、侵略戦争への反省のもとに再び戦場に教え子を送らないことをスローガンにして戦後教育は実践を積み重ねてきました。国民の間にも憲法の価値は定着してきています。『日の丸・君が代』強制の動きに歯止めをかけ、教育基本法改悪、ひいては憲法改悪を阻止するためには、もっと大きな運動を作る必要がありますが、攻撃が強ければ強いほどそれに抵抗する条件も整うのだと確信して、運動を広げて行こうと思います。


なんぶ2001年夏号