大田ところどころ  たたりとなった悲運の武将     〜新田神社〜
  ときは南北朝時代(1334〜1391)、多摩川に散った悲運の武将がいました。
 −南北朝時代−鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が天皇親政を復活させた建武の中興から始
  まった。後醍醐天皇の忠臣・新田義貞率いる南朝方、光明天皇を立てた足利尊氏率いる   北朝方とにわかれて、攻防が繰り返された−

 南朝方、新田義貞の二男義興は、若くして後醍醐天皇から、義貞の家を興すようにとの名を与えられるほどの優れた武将であったといいます。この義興ゆかりの史跡が多く残されているのが大田区矢口〜下丸子付近です。
 義興はいったいどんな悲運な最期をとげたというのか。
 物語がはじまります。 
 彼は南朝方の武将として兵を起こし、足利基氏(尊氏の四子)を追討して鎌倉を占領しました。一時は優位にありましたが尊氏の反撃にあい、越後に潜伏して再起を待っていました。
 そんな折、尊氏が没し(1358年)義興は再起します。その対策に苦戦した基氏は、義興謀殺を計略し、義興のもとにスパイを潜入させます。スパイとなった竹沢右京亮、江戸遠江守、下野守のうまい計らいにより、それをすっかり信用した義興はわずかな従者を伴い越後から鎌倉へ出発します。遠江守の本拠地稲毛庄(川崎)に向かう途中、武蔵の国矢口渡で渡し舟に乗りました。しかし舟の船頭は竹内らに言いくるめられていました。川の中央にさしかかったそのとき、船頭は舟を漕ぐ櫓をわざと落とし、櫓を拾うために川に飛び込み、あらかじめ舟に仕掛けてあった栓を抜いて逃げたのです。そこを対岸で隠れて見ていた竹沢・江戸・下野守の群勢400〜500騎が一斉に攻め立てました。
 義興は初めて謀略と知り憤慨するも時すでに遅く・・・  義興は自ら切腹して果てたのでした。
 この地に立った今、こんな悲惨な歴史背景があったことを想像できるでしょうか?神社に参拝に行った際に、そこにどんな人物がまつられているか想像したことはありますか?ただなんとなく・・・私は行っていたと思います。

落雷により割れたけやき(樹齢約700年)
怨霊の雷?火の玉? 

 新田神社は、東急多摩川線武蔵新田駅、商店街に面したところにあります。義興が謀略にあった舟を棺として埋葬されて、義興そのものを御祭神としてまつっています。彼が自刃してから江戸氏らに義興の怨霊の雷電の怪奇がおこり、また足利方にも怪奇な火災があったり、矢口渡では毎夜火の玉が出て人々を悩ませ、たたりがあると噂になったため作られました。
 実際、入ってすぐ目の前に現れたのは、幹が真っ二つに割れた大木でした。(怖い!)社殿の裏には直径10メートルあまりの塚があり、樹木がうっそうと生い茂っていて不気味な感じでした。これが義興の墳墓です。この塚に入るとたたりがあって出られなくなることから「迷い塚」と呼ばれ、今でもここに立ち入る人はほとんどいないそうです。この日は天候も悪く辺りが暗かったので、早くここを出たいという一心で取材をしてきました。写真を撮るにもためらってしまうような・・・(さすがに塚の写真は撮りませんでした)やっぱり怖い! 
そして、線路の反対側には頓兵衛地蔵があります。頓兵衛というのは平賀源内作の浄瑠璃『神霊矢口渡』に登場する船頭の名です。頓兵衛が後に竹沢らの陰謀に加担した前非を悔やんでこの地蔵を建てたと伝えられます。頓兵衛地蔵の裏手はかつては一帯が水田で、義興のたたりのためか、はまると出てこられない「底なしたんぼ」とも言われたそうです。そして地蔵は溶けたように見えることから「とろけ地蔵」と呼ばれています。これもたたり?


 義興は有力であった故に、若くして無念な死を遂げました。もしも彼が陰謀にはまらなかったとしたら、歴史はがらりと変わっていたかも、、、そんな思いで彼はたたりとして現れ、訴えていたのかもしれません。
 ひやーり背筋も凍る?涼しいお話というよりは、とても悲しい、武将のお話でした。

                                          事務局 西  英 子

なんぶ2001年夏号