「備えあれば・・・・」         弁護士 坂  井  興  一
チリ地震津波の被害は市に大打撃を与えた
今年の上半期、私がふるさと大使の末席に連なる故郷「陸前高田」は、大きなことが二つあった。二月に共産党員市長が誕生し、五月には大きな地震が襲った。問いの数は前者が多かったのだが、何分にも前・現の両市長とも存じ上げているし、大使は政争不干渉を旨とすべきものらしい。それで五月二六日の地震のことだが、震度の割に被害が少なく、津波もなくてなによりだった。金華山付近で深い震源地はそれ故津波が起きにくく、縦揺れで建物のずれ込みが少なかった。災害に懲りている沿岸部より、却って内陸部の方が新幹線橋脚破損騒動など被害も大きい位いであった。 だから、「ナニ、モノが落っこちて来たり、道がネジレた位で、不幸中の幸いでした。」と言ってしまったのは、やはり昭和三五年五月二四日の「チリ地震」津波被害の印象が強く残っていたからである。死者二万七千を超す史上最大の被害があった明治二九年六月一五日のと、同じく三千人を超えた昭和八年三月三日の三陸沖地震で、津波はリアス式湾口が東を向いている田老・宮古・山田・釜石を襲った。津波は他人事くらいにしか思えなかった大船渡・高田・気仙沼等の東南湾口の南三陸沿岸の住人は、余りに遠い震源・余りに早い津波のこともあって警戒心がなく、見物気分で巻き込まれた方々も少なくない。 日本百景の高田松原は樹齢三百年の巨松が鬱蒼としていたのだが、逃げ遅れてよじ登った人もろともに倒れたものもあったようである。六〇年安保騒動のその年、盛岡一高一年だった私が幾らかあとになって帰省を許されて見たのは、倒壊した家々・陸地奥まで押し上げられてしまった漁船の残骸やらであったが、天然の良港を誇る隣の大船渡は、後年の奥尻島のような惨憺たる有様であった。爾来、南三陸の地震・津波対策は徹底され、今度も冷静に対処できたようである。
 それでも天災相手なら、備えあるからどうぞと云うことはないのだが、いくさ支度となると話は難しくなる。今度のイラク戦もさながら新兵器の実験場であったが、軍備と云うものは暗鬼を生んで完備・先端に走るものであることは、「矛盾」の時代以来変わらぬ心(真)理である。備えあれば憂いなしか、それとも却って憂事となるのか。「自衛隊を軍隊と言って何が悪い!」と、早くも開き直られる方々が戦前と同じ答えを出さぬよう、監視を強めねばなるまい。 あまたの戦争責任・関係者を出してしまった母校の後進の一人としては、率爾ながらそのことに思いは巡るのである。
 「憂いあり!」             事務局 吉  川  輝  子
 のっけからわたくし事で恐縮ですが、この夏は家探しにあけくれています。
 家といっても中古マンションですけれども、定年もすぎ「退職」の二文字がちらつきだしたこのごろ、長年なじんだ大田区から離れるのも寂しく、いっそ住まいを大田区に移そうと一大決心をしました。
 「なんとまあ、物好きな」と半ばあきれ顔の悪友をしりめに、当然のことながらご当人はいたって真剣なのです。
 ところで、国民の反対を押し切って成立した有事関連三法を評して、屋根と柱だけの家のようなものと言っていた人がいました。壁も間仕切りもこれから作られる法律次第ということのようです。二年間かけて立法化される「国民保護法制」をはじめ次々と登場するであろう悪法をやすやす通してなるものか!できることなら屋根も柱も根こそぎとっぱらってやりたい。日本を戦争する国にしないために。

なんぶ2001年夏号