あの日の夜汽車  言葉や本が氾濫する生活の中にあるせいか、心に残る〇〇といったテーマは、概して苦手である。旅についても、毎日が旅のような長距離通勤を三十数年も続けている。ふるさとがあり、他郷暮らしはそれ自体が旅路の空で、今更何処への気分もない。だから書くとなれば、故郷への旅になってしまう。取り分け、母に逝かれたときの夜行列車の旅が忘れ難い。偶々何かの用事で家を留守にしていた。家族も留守していた。具合が悪いと知らされてはいたが、いよいよダメかとの連絡を聞いたのが翌日の昼前。新幹線が走る前だったから、もう当日のうちに着く列車はなく、仕方なしに慌てて留守中の諸手配をして、それから乗った上野からの夜汽車をまだ暗いうちに一関で乗り換え、大船渡線1番列車に乗り継いで故郷(岩手陸前高田)の家に辿り着いたとき、母は少し前に逝っていた。その時刻は千厩か気仙沼辺りであったろうか。私は末の子として生まれ、中学を出るときに外に出て、亡くなるまで折々帰省してはいたが、肉親の縁に薄かった。その母が、遅参した私の名を今際の時まで口にしていたという。そんな予感に震えながら、時間調整してしまう夜行列車で乗り継ぎ、政争蛇行路線で知られた大船渡線ののんびりした走りに言葉もなく焦れていた。昭和55年2月20日から翌日にかけての、忘れられない旅だった。
                              弁護士  坂井 興一
ふるさとの海 高田松原

ふと絶えし
 鉄路の音の 伝えしか
  海白々と わが母逝きぬ






上 高 地
朝日に照らされた梓川、明神岳
 穂高はあこがれの山ではあっても、夏の上高地は人の喧噪で落ち着かない、そう思って敬遠してきたが、思い立って訪ねてみたのが5年前の8月下旬、3泊した。行ってみて意外なほど人出がないのにびっくり。実はこの時期、すいているのである。梓川ぞいに河童橋、明神池などをたどったり、また徳本峠や焼岳に登ったり、穂高も岳沢ヒュッテのあたりまで登ってみたり、北アルプスの風景・雰囲気を楽しんだ。しかし一番印象に残る風景は、日の出どきの梓川沿いの景色であった。梓川から霧が沸き立ち、山ぎわに姿よくまとわりつくのである。そうした梓川、明神岳、焼岳の光景はまるで墨絵のようであった。樹木が立ち枯れた大正池も、朝日を浴びたその光景は、日中とは違った荘厳な気配を漂わせていたものである。四季の移ろいを伝えるテレビのニュース番組にはきまって北アルプスが登場する。そのたびにあの景色を思い出しながら、再訪を誓ってばかりいる。
                              弁護士  佐藤 誠一


なんぶ2002冬号