大田ところどころ 幕末の志士に思いを寄せて 〜梅屋敷〜 |
梅屋敷と聞いて、大きくて素敵な『お屋敷』が思い浮かんだ。
大田を知らない私が、今回”大田ところどころ”の担当となったが、一体どこを取材したらいいのだろう・・・そんな私の興味をそそったのが、ここ、梅屋敷だった。一体どんな立派な『お屋敷』があるのだろう! 実際足を運んでみると、そこには小さな公園があった。『お屋敷』は、もはや跡形もなくなっていた。ガッカリ・・・
しかし、そこで気を落とさず、こんな地名が付いているくらいなのだから何かあるのだろう…と、調べてみると、梅屋敷には古い、沢山の歴史があったのだ。
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〜お屋敷があった?!〜
ここは、その名の通り梅の名所で、江戸時代文政の頃から現在に至るまで、蒲田の地に風雅を添え、多くの人々を楽しませてきたという。特に東海道を往来する旅人達にとっては、絶好の休息地であった。
当時、「和中散」(漢方の風邪薬)を売っていた富豪の薬屋が、梅の木数百株を植え、東海道の休み茶屋を作ったことにはじまる。そう、まさにこの梅の庭園と休み茶屋が、梅屋敷なのだ。『お屋敷』はあったのだ!
旅人の中には外国人も多くいた。当時の旅人は、少しでも見栄を張ろうと、季節のいかんを問わず、皆この、魅力に富んだ美しいお茶屋に立ち寄った。
〜梅屋敷事件起こる!〜
また、梅屋敷の料亭には諸国勤王志士達が集まることも多くあったという。幕末志士の集会所だったのである。高杉晋作、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、大隈重信、佐久間象山ら幕末維新期の要人が訪れていたのだ!
実は、私は以前、この時代に生きるこのアツイ人達の真っ直ぐな生き様に魅了され、以来ずっと関心を持っていた。今回たまたま大田の取材をすることになったことで、初めて知った事実だった。
彼らはいざというときには、羽田でも池上でも逃げられるこの地で、花を愛でるこの風流に名を借りて、横浜の外国公使を襲撃し攘夷のもとを開こうと謀議していた。しかしこの計画は事前に土佐藩主・山内容堂に知られ、長州藩主世子・毛利元徳の耳へと入り、彼らの説得により事なきを得た。
この後、志士一同はこの梅屋敷に酒宴を催し、その席上で長州藩の上役・周布政之助は山内容堂が長州藩士達の襲撃計画を阻止するために、毛利元徳に事を告げたことを快からず思い、酔って容堂を非難した。土佐藩士は激怒!今にも周布を斬ろうというその瞬間、長州藩士高杉晋作がそこへ割って入り、彼の奇知によって周布は救われたのだった。梅屋敷事件である。
ここでは多く語れないのだが、私は高杉晋作が好きなのだ。
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梅屋敷公園 100本あまりの梅の木があり、初春には色とりどりの花を咲かせる。 |
〜歴史は現代に〜
意外にも、こんなに身近なところに、過去の大きな歴史は存在し、その歴史に名を残す偉大な人物が訪れていた。そう思うと、不思議と親近感がわいてくる。現在この梅屋敷は、かなり縮小され、特にこの時期にはかつての賑わいは想像できないほど静かで小さな公園となっている。そこには木陰で休むサラリーマンやのんびりと涼む老人の姿などがあり、とてもほのぼのとしていた。しかし梅の季節になると、大勢の人々が訪れ、賑わいは蘇ってくるのだ。
その、姿すら変わってしまったが、今でもこの地は残っており、梅を愛でる人々の心もまた残っていることを、変わらぬ歴史として誇りに思いたい。これからも守り続けたい地である。梅の季節にまた訪れようと思う。
事 務 局 西 英 子
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