どうなる?!日本の教育
「日の丸・君が代」強制は憲法と教育基本法に違反
                                弁護士 海 部 幸 造   弁護士 杉尾 健太郎
画期的完全勝訴判決
 06年9月21日、東京地方裁判所特大法廷。「主文…国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを確認する」。
 慎み深いたくさんの原告、支援者たちで埋め尽くされた法廷は少しどよめいただけでした。判決言渡しは続きます。「国家斉唱の際に、ピアノ伴奏義務のないことを確認する」「国旗に向かって起立しないこと、国歌を斉唱しないこと、ピアノ伴奏をしないことを理由として、いかなる処分もしてはならない」「東京都は、原告らに対し、各3万円を支払え」。
 原告団席、弁護団席、傍聴席の支援者たちは、笑顔、笑顔、涙にくしゃくしゃになった顔も混じります。最後に、退廷する3人の裁判官の背中に向かって法廷の全員(東京都の代理人たちは除く)が立ち上がって、はじけるような万雷の拍手を送りました。原告完全勝訴、画期的な判決でした。
都立学校に吹き荒れる「日の丸・君が代」強制の嵐
 東京都教育委員会(以下「都教委」)は、03年10月23日通達以降、都立学校の教職員に対し、卒業式・入学式において日の丸に対する敬礼、君が代の起立斉唱、ピアノ伴奏を、懲戒処分の脅しの下に強制してきています。        
 都教委は、日の丸は舞台壇上正面に掲揚せよ(三脚使用は不可)、式次第に「国歌斉唱」と記載せよ、司会者が「国歌斉唱」と発声して起立を促せ、教職員の席はあらかじめ指定し座席表を作成せよ(不起立を確認しやすいようにするため)、教職員はその指定された席で国旗に向かって起立斉唱せよ、生徒は正面の日の丸に向いて着席させよ(在校生との対面式は不可)等と事細かに命じています。しかも各校長に対しては、教職員に書面で職務命令を出せ、式次第と会場配置図を事前に都教委に提出してチェックを受けろ、等と命じています。式当日は各学校に都教委の職員を派遣して、違反者が発生した場合の確認の仕方や都教委への報告の仕方まで、事細かに指示し、日の丸・君が代を強制したのです。
 しかし、教職員の中には、信仰上の理由、民族的な理由、あるいは戦前戦中に日の丸・君が代が軍国主義思想の精神的支柱として侵略戦争に利用されてきた歴史から、日の丸に礼をし君が代を起立斉唱することはできないと考える人がたくさんいます。また、教師として、日頃生徒達に、自分の頭で考え行動することの大切さや思想・良心の自由の大切さを教えてきた自分が、職務命令を受け従わなければ懲戒処分を受けるから、といって起立斉唱することなどできないとの思いを持つ人もたくさんいます。
 そうした思いで起立斉唱しなかった、ピアノ伴奏をしなかった教職員に対して、違反回数に応じて、戒告、減給、停職などの懲戒処分が現に科され、その数は既に約350人に上っています。違反5回で教員身分の剥奪が予定されています。また、内定されていた定年後の嘱託採用まで、この不起立を理由に取り消されています。こうして教職員は、自分の思想良心、教師としての良心に反して職務命令に従うか、自分の思想良心を貫いて懲戒処分を受けるか、の岐路に立たされたのです。

戦争する国へ 「日の丸君が代」強制のねらいは子どもたち
 都教委のこの状況は、まさに教育基本法「改正」の先取りといえるものです。現に都教委の委員である将棋の米長邦夫氏は「東京都は独自に教育基本法を変えた」と公言してはばかりません。
 教職員に対する日の丸・君が代の強制の狙いは、何よりも子ども達です。それは、子どもたちに国家への帰属意識をすり込み、国家や日の丸、君が代についての一方的な観念を押しつけるものであり、戦争をする国の体制作りの一環として、国家の命ずることに従順に従う国民を育成する教育体制を作ろうとするものです。そして、そのような教育を行うための、上命下服の使い勝手の良い教師を選別しようとするものであり、そのための「踏み絵」が今回の日の丸・君が代の強制です。
 しかし、教育の本質は、豊かな成長・発達の可能性を持つ一人一人の子どもたちの学ぶ権利を保障し、人格の完成、人格の全面的発達を助けることにあります。そして、その結果として平和で民主的な社会の一員に成長することが期待されるのです。教育基本法1条(教育の目的)も、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび…自主的な精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」としています。
 そうであれば子どもたちが価値観を形成する場面では、子どもたちが自ら価値観を選択するための判断材料を提供することこそが教育に求められているはずです。かつて日本が軍事力をもってアジアを侵略した歴史とも深く結びついている「日の丸・君が代」について、一方的な価値観を押しつけることは、教育現場にふさわしいとは思えません。

9月21日判決=難波判決=の意義
 この都教委の暴走に対して、難波裁判長の判決は、要旨、「東京都教育委員会が強行している教職員に対する君が代の起立・斉唱の強制、ピアノ伴奏の強制は、憲法19条の保障する思想信条の自由を侵害するものである。また、こうした強制は教育の自主性を侵害するものであるうえ、教職員に対して生徒に一方的な一定の理論や観念を教え込むことを強制するものであって、教育基本法10条の定める『不当な支配』にあたり違法である」と明快に断罪しました。
 憲法は、何よりも個人の価値に重きを置き、「多数決でも奪われない権利」たる基本的人権を保障し、それを守るために国家権力を制約するものです。また、教育基本法は、教育勅語の下で政治が教育の内容、体制を支配し、軍国少年、軍国少女を育て、国民を戦争へと駆り立てていった、日本の戦前・戦中の教育に対する痛切な反省に立って制定され、教育の目的を、「天皇の忠実な臣民の育成」から、「子どもの人格の完成」へと根本的に転換し、憲法はこれを基本的人権と位置づけたのです。これら憲法で保障された基本的人権の価値、教育の本質に根ざした教育基本法の理念を正面から受け止めたのが、難波判決です。

教育基本法「改正」案=行政が教育を支配?!
 しかし、この判決に対して、「法律の定めに従って行政が行うことが『不当支配』になるはずがない」などといった判決「批判」をする人もいます。この主張こそが、教育基本法「改正」案の考え方なのです。
 自民・公明の与党「改正」案は、教育基本法の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って」行わなければならない(10条)との規定を削除し、教育は「不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」(「改正」案16条1項)とし、さらに国が「教育に関する施策を総合的に策定し、実施」(同条2項)し、政府はそのための「基本的な方針」「施策」「その他必要な事項」について「基本的な計画を定め」る(同17条1項)としています。
 つまり、政府与党「改正」案は、法律(ここには政府が発する政令や規則まで含まれると解釈される)に根拠がありさえすれば、教育行政は「不当な支配」とはならないというのです。それどころか、行政は「法律」に根拠をもちさえすれば、教育の内容を含め教育をどのようにでも支配することができるようになるのです。教育行政がどのように暴走しようとも教育基本法を根拠にそれをとめることはできなくなるのです。そしてその教育支配の根拠となる法律は、政治的多数派が「多数決」で制定できることになります。
 しかし、最高裁判所旭川学テ大法廷判決は、次のように述べています。「もとより、政党政治の下で多数決原理によって左右される国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によって左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する・・国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、たとえば誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定からも許されない」
 政府案は、まさに最高裁判決が危惧した「危険」を現実のものとするものであるし、憲法の人権保障の規定、そして教育のあるべき姿に真っ向から反するものと言わなければなりません。

教育を護る世論を更に大きく
2006年11月16日、自民・公明の与党は、教育基本法「改正」政府案を、衆議院で強行採決し、22日からは参議院での審議が始まっています。しかし、私たちはすばらしい判決を手にして「改正」反対の世論も大きく拡がりつつあります。弁護士会も12月12日現在で、日本弁護士連合会をはじめ全国52の弁護士会のうち50弁護士会で反対あるいは慎重審議すべしとの決議をあげ ています。こうした世論を更に大きく広げたいものです。その力は、仮に「改正」が強行されたとしても、権力による教育支配を押しとどめる力となるものです。

なんぶ2002冬号