大田ところどころ    文士の道を辿る          〜山王草堂記念館〜
 私がこのページを担当するようになってから、今回で6回目になります。そろそろネタも尽きてきて、いや、ネタは沢山あるのだろうけど書きたいことが見つからなくてペンを取れずにいると、事務所の向弁護士が助言をくれました。向弁護士の住まいのそばにあるという山王草堂記念公園です。

〜文学のまち、超エリートのまち?〜
 大田区山王・馬込付近は「馬込文士村」といわれるほど、名高い文士達が数多くの文学作品を残した地なのだそうです。そこには馬込文士村の総合案内板や文士住居跡の文学碑が設置されていて、その数、案内板4ヶ所、文学碑は30人・32ヶ所もあります。私の知っている著名人だけでも川端康成、三好達治、三島由紀夫などがおり、挙げればきりがありません。

〜江戸城が大森に?!〜
 当事務所蒲田からはJR京浜東北線で一駅、大森駅北口で下車。大森といえばちょっと高級住宅街のイメージ?駅を出て池上通りを右、突き当たるジャーマン通りをずっと歩きます。駅前はいたって普通なのですが、通りをちょっと入ると立派なお宅がズラーリ、なるほど高級なムード漂っています。かつて首相をつとめた伯爵の清浦奎吾や戦後の芦田首相、大ジャーナリスト徳富蘇峰も住んでいたそうです。今回の目的地、山王草堂記念館はこの徳富蘇峰の邸宅でした。ジャーマン通りから環七通りへ出る手前で路地に入り坂を上がっていきます。 
この辺りは小さい路地や坂が多く入り組んでいます。高級住宅街ってなぜだか坂が多いような・・余談ですが、馬込の一帯は、こうした地形を利用してか、難攻不落の城を建てるにふさわしく、ナント江戸城の第一候補地だったのです。もしこの辺りに江戸城がつくられていたら・・?想像できますか?

〜徳富蘇峰の足跡〜
 道に迷っていないか不安になりながらも進んでいくと、公園の入口を発見。思っていたよりずっと大きい公園でした。木々が茂っていて、ほんのり紅葉している園内は秋晴れの今日なんてとても気持ちがよくて散歩には最適。気分転換になりますよ。
階段を上がると、記念館と銅像が見えてきました。銅像はもちろん、ここの主徳富蘇峰です。ちょっと目がリアルでまるで生きているみたい。長い間ずっとこの地を見守っているのかもしれません。
 徳富蘇峰がどんな人物だったかというと、彼は日本で最初の総合雑誌「国民の友」を発刊し、続いて「国民新聞」を創刊し、ジャーナリズムの先駆者と言われていました。弟もまた著名人、小説家徳富蘆花です。兄蘇峰は1924年に大田区山王に居宅を構えそこを山王草堂と称し、ここで「近世日本国民史」の著作活動にあたりました。「近世日本国民史」は、現在世界最大の著作としてなんとギネスブックに記載されています!彼は同志社在学中より明治維新史編纂を志していました。明治の歴史を明らかにするため織豊時代まで遡り、56歳で近代日本国民史第一巻「織田氏時代前篇」の稿を起こしました。そして、90歳のとき第百巻「明治時代」をもって完結したのです。
 記念館には蘇峰の原稿の他、蘇峰愛用の文房具・印鑑、また蘇峰の交遊の広さを物語る書簡類が残されています。手紙は斎藤茂吉、与謝野晶子、坪内逍遙、芥川龍之介、菊池寛、伊藤博文、板垣退助、西園寺公望、尾崎行雄など近世著名人からのものがずらり数多く展示されています。特に勝海舟からは徳をもって優れた教えを受けていたようで、手紙のやりとりからその様子が伺えます。また恩師新島襄の貴重な絶筆も掲げられており、記念館横に植えられているカタルパの木は彼との師弟愛を物語っています。

〜「ところどころ」の旅は続く・・・〜

 徳富蘇峰、実は彼について私はほとんど知りませんでした。しかしこんなに近いところでその歴史に触れることができます。一ジャーナリストにこんなにも多くの著名人が関わっていたことにも驚きました。山王馬込一帯は他にも歩いてみる価値がありそうです。まだまだところどころのネタは尽きることがなさそうです。 
                                              (事務局 西 英子)

カタルパの花
明治10年に新島襄がアメリカから種子を持ち帰り、父淇水と蘇峰に送ったのが始まりで、5月が見頃。香りのよい白いベル状の花を咲かせます。


なんぶ2002冬号